前回の記事は詭弁術の導入と論点のすり替え方法
今回から論理っぽいのに、詭弁になってしまう誤りについて
命題(主張)の型の定義から
はじめは当たり前だと思っていた話が途中からだんだんおかしくなる。論点は変わっていないはずなのに、変だなと思いつつも何処が変かわからない。
対処としては、論理学に忠実に考えること。
一旦論理学の基本の再確認。命題の構成から
命題(主張)の型1:逆、裏、対偶とは
ある命題「”p”ならば”q”」の言い換えに対し、逆、裏、対偶は以下

この時、
という事を忘れない事。
言い換え:逆、裏は正しいとは限らない
「1たす1は2である」という命題に対し、逆の「2は1たす1である」は正しいが、
「サルの尻は赤い」に対する逆「尻が赤いものはサルである」であるは正しくない。
この時々正しくて、時々違うところを遊ぶのが、詭弁の特徴である。
つづいて命題(主張)の型
命題(主張)の型2 :全称文と特称文
主張(命題)の型には下記 4通りの組み合わせがある。

この特称文、全称文の置き換えでも論理学的な誤りから詭弁が発生する。
型の言換えによる誤り1:“部分から全体“への展開(特称文->全称文 )
「あるAは~」といっていたのを「すべてのAは~である」に置き換えるのは誤りを生む。
また“ある”の付ける先(事象)を変える事も誤りを生む。
また、女性に振られた男が、「あの女は不誠実だ」とのたまい、勢いあまって“あの”をとって「女は不誠実だ」というのは論理学的には正しくない(感情的にはどうかしらんが)。
部分から全体への展開の誤りには、こんな例も記載されていた。
要は部分的な情報のみであるのに、あたかも全体として判断できるかの様な錯覚に陥ってしまう危険性である。
事実として誤りである事からおかしい事にはすぐに気づくが、論理的な間違いには気づきづらい。
逆に、 事実として誤りである事に気づけなければ、正しいと誤解する可能性がある。
よく使われるので、要注意。
但し、実生活の判断においては、論理的に断定しがたく、部分的な情報から全体を判断する事(帰納法)は、よく使われる。
これは詭弁ではない。
型の言換えによる誤り2:“全体から部分”への展開(全称文->特称文)
“「全てのボルトは緩まない」というのは誤り“という主張を、部分に展開しようとして”「あるボルトは緩む」”とは置き換えるのは間違い
なぜなら “「全てのボルトが緩む」”可能性があるからである。一部真であるが、全体としては偽となるのである。
これは、「全てのAはBではない」という可能性が元の主張に含まれていたのに、置き換えた時点でこれがごっそりと抜け落ちるためである。
図で描くと明確ではあるのだが、言葉ではごまかされやすい (下図 参照)。

さらに。。
「~は誤りである」-> (「~とはいえない」or 「~とは限らない」)と言い換えられると、いっそうもっともらしく聞こえてしまう。 (例えば、”全てのボルトは緩まないとはいえない” と言われると、ふむ、”あるボルトは緩む”って事ね、と理解してしまうかと)
(「~とはいえない」 or 「~とは限らない」)は、「~の時もあるし、そうでないときもある」 という意味でしかない事を覚えておく。一部真は真である。
この紛らわしさは、引っかかりやすい。
さて、次の記事からよく知られている三段論法についてとそれを使った詭弁について