PR

見方をかえて勝手に納得:吾唯足知(われただ足るを知る@龍安寺)

吾唯足知:龍安寺の蹲踞(つくばい)

ずいぶん昔、京都の龍安寺にいった時に、水戸の光圀公が寄贈した”吾唯足知”(吾ただ足るを知る)と書かれた円形の石のつくばい(手水鉢)があった。

”口”の字を中心に組み合わせて記号化してあり、このデザイン思いついた人センスいいなぁ、と一発でお気に入りリスト入り。
(石庭よりも気に入ったぐらい。おススメ)

で、”吾唯足知”の意味はというと。。。

龍安寺つくばい:吾唯足るを知る(レプリカ、本物は非公開)

”知足のものは貧しと言えど富めり、不知足のものは富めりといえど貧し”のお釈迦様(紀元前7-5世紀ごろ)のいう”少欲足知”が語源、これが古代中国の思想家の老子(道教の始祖:~紀元前470年ごろ)によって広まったとの事。
現代語解釈は、”今ある事に満足する事”とか、”欲望には切りはないが分相応で満足することができる者は、心が富み豊かである” である事等々、要は欲のコントロールをする事の大切さを伝えるお言葉らしい

老子(老子道徳経) 第33章

知人者智、自知者明 (人を知る者は智、自ら知る者は明なり)
勝人者有力、自勝者強 (人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し)
知足者富、強行者有志(足るを知る者は富み、つとめて行う者は志有り)
不失其所者久(その所を失わざる者はひさし)
死而不亡者壽(死してしかも亡びざる者いのちながし)

へぇー、と。(このつくばいのデザインは気に入ったけど、)正直、お言葉がありがたすぎるというか、自分にはストイック感高すぎで、こりゃ、、、棚の上にあげとこうと。。。

この解釈ですっきりしなかったのが、もうひとつ。

あちこちのお寺においてあるならまだしも、なんで水戸の黄門様はわざわざ枯山水で有名な石庭にこのつくばいを寄贈したのだろうと。。。石庭とのリンクがわからなかった。。

まぁ、質素、静寂、わびさびを表現する石庭、が、欲のコントロールを表す??的な禅問答なのかなー、とは思ったが。。わからなかったので、そのまま放置

そういう事か(勝手に解釈)

昔撮った上の写真をみつけて、ん?なんだっけと再度調べていて、ふときづいた。

この手水鉢自体のメッセージは、、、

”我は ”足知” の意味をこの石庭で理解した”

だと。( ”吾” 唯足知だし。。)

水を表現するのに水さえも不要。 表現したいものを突き詰め、不要なモノをそぎ落とした結果がこの石庭。何か足すのも不要。”本質”が視覚化されているのがこの石庭 。

で、この石庭をみれば”足知”の意味がわかる、というのが水戸のご老公のメッセージではないかと。

ついでに、”全て足りている事を知っている” から、これ以上のモノは”不要”。
それ以上に何か必要だとかの”欲”なんてそもそも生まれないでしょう、の解釈の方が腑に落ちる。
(きれいな円形な鉢になっているのにも意味が持てそうだし。。)

そう考えれば、

お釈迦様の”知足のものは貧しと言えど富めり、不知足のものは富めりといえど貧し”は
-> 本質を知っている者は貧しくとも心は豊か、本質を知らない者は豊かであっても心は貧しい、だし

老子の”足るを知る者は富み、つとめて行う者は志有り”は、
-> 本質を知っている者は心は豊かであり、本質を追究する者はには志がある

となり、個人的にはイロイロすっきり。といった訳で、自分はこっちを採用。
(”少欲足知”なんかの現代解釈とは因果関係が逆になるが、、、まぁ、欲のコントロールみたいな高尚な話は他にお任せ)

”朝に道を聞かば夕べに死するとも可なり”なんかと似た感じで、本質を知る事の面白さと理解した時の充足感の話でいいじゃん、と

ついでに

抽象画のようでもあるが、この日本ではわびさびとかで表現されたりする感覚(結構すき)、たぶんそぎ落としていったシンプルさが楽しめたり、何もない空白を楽しめたり、そのモノの経年変化自体も楽しむ事ができる日本独特な感覚なのかなぁと。これって言葉で正確に表現するのって結構むずかしいはず。で、、、

なんでも言葉で定義したがる西洋の人どうしてんだろって思ったら、英語だと枯山水はZen-Gardenだと <-ははは、さすがうまい。

まぁ、美しさ全てを表現しようとする西洋の庭園、幾何学的な美しさを追究しようとするムスリムの庭園とは別極なんだろうと。

タイトルとURLをコピーしました