天皇の称号
古墳時代、ヤマト政権盟主である大王家(おおきみけ)の「大王」から「天皇」(「皇帝」に対抗しうる対外的な最高称号)に正式に切替るのは、7世紀後半の第40代・天武天皇またはその前後の時代とする説が有力。
後の「古事記」(712年)の中においても「天皇」の文字や称号が初めて登場するのは、第10代・崇神(すじん)天皇の段からである。
つまり、神武~崇神~天武(第40代:7世紀後半)までの”天皇”に、天皇の称号が用いられているのは、後史での追加(遡っての使用)とみるのが妥当。
神武天皇から今上天皇までの系譜(全126代)と各時代背景
各天皇の系譜とその時代背景(社会構造とその時代に起きた出来事等)を整理(年表化)してみた。
日本の社会構造の変遷
日本の社会構造の変化をみると概略、
- 弥生時代~:各地にクニ(小国)と呼ばれる独立した地域勢力が多数存在する「クニ連合(分立社会)」
- 古墳時代初期~:ヤマト政権初期「首長連合社会」
- 古墳時代中期~:「氏族制社会(氏姓制度)」への移行と成立
- 飛鳥時代~:中央集権的な「律令国家体制」への移行と成立
- 平安時代~:中央集権体制下において「貴族社会」の成立
- 鎌倉時代~:「封建社会(武家社会)」への移行と成立
- 明治時代~:「立憲君主制国家」への体制移行
- 昭和時代~:「民主主義国家」への体制移行
と変遷していく様がみてとれる。天皇家の
「古事記」「日本書紀」から始まる天皇の系譜
天皇の系譜は日本の正史として編纂された「古事記」「日本書紀」から始めてみたが、特に弥生時代、古墳時代(ヤマト政権下)については、正史の割には考古学的証拠や中国・朝鮮半島の歴史書との整合性が取れていない。
これらでは、古代日本の「単一血統の君主(天皇)が神の代から日本を統治していた」という記紀と異なる社会構造の枠組みが示されている。
→こちらも、該当する時代に合わせ以下のに追記。
さて、天皇の系譜は初代神武天皇に始まる。
ちなみに、古事記&日本書紀によれば、神武天皇は天孫降臨したニニギノミコトのひ孫とされ日本の古代神につながる血統。これは、ニニギノミコトは、最高神アマテラス「天壌無窮の神勅」により日本の統治権が授けられ、その印である「三種の神器」を携えて高天原から高千穂の峰(日向)へ降臨(天孫降臨)したとする神とされることによる。
古事記&日本書紀については以下で覚書化
年表
黒字:男系男子天皇、青字:男系継承であることが不明な天皇、赤字:男系女性天皇
- 女性天皇: 性別が女性の天皇(過去に10代8人存在。全員が父方に天皇の血を持つ「男系」)
- 女系天皇: 母方の血筋を通じて天皇の血を引く天皇(歴史上存在しないとされる)
弥生時代(紀元前10世紀頃)
弥生時代、日本列島は統一された単一の国家ではなく、各地に「クニ(小国)」と呼ばれる独立した地域勢力が多数存在する「クニ連合(分立社会)」の状態であったという説が有力。
「古事記」「日本書記」においては、神武天皇は紀元前660年ごろに即位し初代天皇となった。
- 神武天皇(伝承上の即位:紀元前660年頃〜)
- ニニギノミコト(瓊瓊杵尊:天孫降臨した神))のひ孫とされる(神話上の存在)
- ニニギノミコト(瓊瓊杵尊:天孫降臨した神)
→ その子:ヤマヒコ(山幸彦/ホオリノミコト:神)
→ その子:ウガヤフキアエズノミコト(鵜草葺不合尊:神)
→ その子:神武天皇- (ちなみに、ウミヒコ(海幸彦/ホデリノミコト)はヤマヒコの兄)
- ニニギノミコト(瓊瓊杵尊:天孫降臨した神)
- 生物学的な血縁の連続性は、当然証明不可能。
- ニニギノミコト(瓊瓊杵尊:天孫降臨した神))のひ孫とされる(神話上の存在)
- 綏靖天皇(伝承上の即位:紀元前581年頃〜):以下、欠史八代(実在および系譜不明)
- 安寧天皇(伝承上の即位:紀元前549年頃〜): ↑
- 懿徳天皇(伝承上の即位:紀元前510年頃〜): ↑
- 孝昭天皇(伝承上の即位:紀元前475年頃〜): ↑
- 孝安天皇(伝承上の即位:紀元前392年頃〜): ↑
- 孝霊天皇(伝承上の即位:紀元前290年頃〜): ↑
- 孝元天皇(伝承上の即位:紀元前214年頃〜): ↑
- 開化天皇(伝承上の即位:紀元前157年頃〜): ↑
不整合1:
弥生時代中期〜後期(1世紀頃~3世紀頃):「後漢書」東夷伝「奴国」
弥生時代中期から後期にかけての日本列島は、吉野ヶ里遺跡(北部九州)や井寺遺跡などにみられるように、各地に濠(ほり)に囲まれたクニが乱立し、互いに争い合っていた状態であったとされる。
つまり、畿内の政権が日本全体を支配していたわけではなく、地域ごとに独立した強大な政治勢力がいくつも並存していたと考えられている
- 弥生時代中期から後期にかけての日本列島は、吉野ヶ里遺跡(北部九州)や井寺遺跡など、各地に濠(ほり)に囲まれたクニが乱立し、互いに争い合っていた状態
- 歴史書的根拠:「後漢書」東夷伝などに記される「倭国乱」
- 「後漢書」東夷伝では、日本列島には「倭」と呼ばれる多数の小国があり、それぞれの王が中国の皇帝に使者を送っていたとされる。
- 考古学的根拠:紀元57年 後漢の光武帝からの印綬(金印)「倭の奴国(の王)」の存在もこれを裏付ける。
これは紀元前後において列島内の諸勢力が個別に外交を行っていたことを示すが、古代日本の「単一血統の君主(天皇)が神の代から日本を統治していた」という記紀とは異なる枠組み。
不整合2:
弥生時代末期〜古墳時代初頭(3世紀前半〜中頃):「三国志」魏書東夷伝(魏志倭人伝)「邪馬台国」
弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての日本列島は、『三国志』魏書東夷伝(魏志倭人伝)に記されるように、多数のクニが互いに争い合っていた状態であったとされる。この諸国が抗争する中で邪馬台国の卑弥呼が女王として擁立され、連合体の中心として台頭していたと考えられている・
- 弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての日本列島は、30余国(または100余国)が乱立し、互いに争い合っていた状態
- 「魏志倭人伝」では、各地の小国が争う中で「邪馬台国」の卑弥呼が女王となると、鬼道(呪術・占い)により人々をまとめ、国が平定されたとされる。
- 歴史書的根拠:「三国志」魏書東夷伝(魏志倭人伝)に記される「倭国乱」と卑弥呼の登場とその経緯
これは3世紀前半頃において、列島内の多数の勢力が一定の秩序や連合体制を構築し始めていたことを示すが、ヤマト政権下の大王家(天皇家)と「邪馬台国」の卑弥呼とは関連付けられていない
古墳時代
古墳時代(初期・3世紀中頃〜)
ヤマト政権: 畿内(奈良盆地:巻向遺跡など)を中心に、日本各地の首長層が結集する初期の政治的中心地が形成される。緩やかな「首長連合社会」。
- 崇神天皇(伝承上の即位:紀元前97年頃〜/考古学的推定:3世紀中頃〜後半頃)
- 歴史学上、実在が確実視される最初の天皇(王)候補とされることが多いが、それ以前の欠史八代との系譜的接続は不明。初期ヤマト政権の成立期や最初の大型前方後円墳の築造時期に重なる。
- 垂仁天皇(伝承上の即位:紀元前29年頃〜/ 考古学的推定:3世紀末〜4世紀前半頃)
- 景行天皇(伝承上の即位:71年頃〜/考古学的推定:4世紀前半頃):ヤマトタケル(日本武尊)の父
- 成務天皇(伝承上の即位:131年頃〜/考古学的推定:4世紀中頃頃):ヤマトタケルの異母兄弟(弟)
- ヤマトタケルは、皇子として西方の熊襲(くまそ)や東方の蝦夷(えみし)を平定するために出征。故郷への帰還中に病にて倒れる。成務天皇はヤマトタケルの異母弟
- 仲哀天皇(伝承上の即位:192年頃〜/考古学的推定:4世紀後半頃)
古墳時代(中期・4世紀末〜5世紀頃)
ヤマト政権: 河内平野(大阪平野南部)へ政治拠点が移動。瀬戸内や大陸との外交・流通を背景に巨大古墳(百舌鳥・古市古墳群)が築造される。雄略天皇(ワカタケル大王)の時代などを経て大王の権力が強化されるにつれ「首長連合」から「氏族制社会(氏姓制度)」に移行
- 応神天皇(伝承上の即位:270年頃〜 /考古学的推定:4世紀末〜5世紀初頭頃)
- 巨大な誉田御廟山古墳(応神天皇陵)などの造営と重なりヤマト政権の権力が大きく確立・拡大した時期の王
- 仁徳天皇(伝承上の即位:313年頃〜/考古学的推定:5世紀前半頃)
- 大山陵古墳(仁徳天皇陵)の造営時期と重なり、河内政権の全盛期を築いた王
- 履中天皇(伝承上の即位:400年頃〜/考古学的推定:5世紀前半〜中頃)
- 反正天皇(伝承上の即位:406年頃〜/考古学的推定:5世紀前半頃)
- 允恭天皇(伝承上の即位:412年頃〜/考古学的推定:5世紀中頃)
- 安康天皇(伝承上の即位:453年頃〜/考古学的推定:5世紀中頃)
- 雄略天皇(伝承上の即位:456年頃〜/考古学的推定:5世紀後半・下半)
- 稲荷山古墳鉄剣銘や江田船山古墳鉄刀銘の「ワカタケル大王」に比定される(結びつけられる)。
国内統治と対外的な強権を示した王。
- 稲荷山古墳鉄剣銘や江田船山古墳鉄刀銘の「ワカタケル大王」に比定される(結びつけられる)。
不整合3:
古墳時代中期(4世紀末〜5世紀初頭):好太王碑(広開土王碑)
4世紀末から5世紀初頭にかけての朝鮮半島および日本列島周辺は、「好太王碑」の碑文に記されるように、高句麗軍が南下して百済や倭軍と激しく交戦していた状態であったとされる。 つまり、朝鮮半島南部(任那など)では、諸勢力が入り乱れる国際的な紛争や同盟関係の中で、倭軍が半島へ出兵し高句麗と衝突していたと考えられている。
これは、記紀の神話(神功皇后(仲哀天皇の皇后)の三韓征伐など)でも「日本が朝鮮半島へ出兵した」との記述がみられるものの、国内の平和的な統治や祭祀を中心とする記紀の初期天皇像とは、かなり温度差がある。
- 4世紀末~5世紀初頭にかけての朝鮮半島南部の情勢は、百済・新羅と高句麗・倭が複雑に対立・抗争
- 歴史書的根拠:高句麗の第19代王・広開土王の功績を称えた高句麗の石碑(414年建立)に「倭が海を渡って百済や新羅を破り、臣民にした」といった内容が記される。またこれには辛卯年(391年)以降の倭の渡海と高句麗軍による撃破の記録も記される。
- 考古学的根拠:この時期の朝鮮半島南部における武器・武具の出土や、日本列島と半島の文物交流の痕跡は、軍事的な介入や緊密な人的往来の存在を裏付ける。
- この時代の日本列島の勢力が海を越えて朝鮮半島の争いに深く関与していたことを示す。
またこの時代の日本は、巨大な前方後円墳が(畿内を中心として)日本各地に築造され、ヤマト政権が国内の支配体制を強めている時期であり、畿内を中心とする強力な政治連合(ヤマト政権)の主導のもと、大王(おおきみ)を中心とした体制にて、大陸や朝鮮半島との間で外交・軍事的な関わりを強めていった時代であったとも考えられている。
不整合4:
古墳時代中期(5世紀代):「宋書」倭国伝の「倭の五王」
「宋書」倭国伝によると、5世紀にかけての外交関係は、倭国の代々の王、讃・珍・済・興・武の「倭の五王」が、中国の南朝(宋)へ朝貢し、官爵を求めていたことが記録されている。
この時代対外的には、当時の日本が中国の皇帝に従属する単なる一地方政権として支配されていたわけではなく、「倭国」として積極的な朝貢外交を展開し、朝鮮半島における政治的・軍事的な優位性(諸軍事称号の授与)を中国から認めさせる外交活動を行っていたとされる。
つまり、5世紀には、「倭国」は高度な外交戦略を持ち、東アジアの有力な軍事政権の一角として、朝鮮半島における権益を国際的に認めさせようとしていたことを示しているとされるが、「倭の五王」がヤマト政権の大王にあたるかどうかを含め、比定されてはいない。
(第17~第21代天皇(履中・反正・允恭・安康・雄略)である等の諸説あり)
- 5世紀における倭国の対外姿勢は、中国の正史を通じて自らの正統性と半島内での優位性を誇示しようとした状態
- 歴史書的根拠:「宋書」倭国伝に記録された、倭王「武」の上表文や南朝皇帝から授けられた「使持節、都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・弁韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王」などの称号。
- 考古学的根拠:5世紀代の大型前方後円墳の造営や、日本各地からの鉄資源の安定的な獲得、朝鮮半島系遺物の出土などは、強大な王権が外交と結びついていたことを裏付ける。
古墳時代(後期・5世紀末〜6世紀)
ヤマト政権: 拠点が再び奈良盆地(飛鳥地方など)に戻り、豪族間の勢力争いや大陸からの新しい政治・文化の受容が進む。蘇我氏や物部氏などの有力豪族が「氏上(うじのかみ)」として政権の中核を担い、「氏姓制度」としての社会構造が完成
- 清寧天皇(伝承上の即位:480年頃〜/考古学的推定:5世紀末頃)
- 顕宗天皇(伝承上の即位:485年頃〜/考古学的推定:5世紀末頃)
- 仁賢天皇(伝承上の即位:488年頃〜/考古学的推定:5世紀末〜6世紀初頭頃)
- 武烈天皇(伝承上の即位:498年頃〜/考古学的推定:6世紀初頭頃)
- 継体天皇(507年頃〜)
- 大王家の直系の断絶と継体天皇:
古事記・日本書紀によれば第25代武烈天皇に子がなかったことから大王家の直系が断絶。越前国の大迹王が政権より推挙され継体天皇が即位したと記述される。 - ただし、応神天皇の五世孫とされる継体天皇自身の大王家との直接的な親子関係を示す記録が極めて希薄。
- 継体天皇は地方実力者によるヤマト政権下における政権交代(別の系統)である説が有力。
- 大王家の直系の断絶と継体天皇:
- 安閑天皇(531〜)
- 宣化天皇(536〜)
- 欽明天皇(539〜)
- 敏達天皇(572〜)
- 用明天皇(585〜)
- 大王家(のちの天皇家)と蘇我氏(蘇我馬子)が協力し、反対派の物部氏(物部守屋)を討伐(丁未の乱(ていびのらん)587年)。結果、蘇我氏の権力が拡大
- 崇峻天皇(587〜)
飛鳥時代にかけて、「氏姓制度」は「律令国家体制」に移行していく
飛鳥時代
中央集権的な「律令国家体制」への移行:豪族は天皇が統治する中央政権に出仕する「官人(役人)」へ
- 推古天皇(592または593〜)
- 先代・崇峻の異母妹。蘇我馬子の姪(次代は欽明天皇の男系孫)
聖徳太子(厩戸王)らを登用して冠位十二階や十七条憲法を制定し、仏教の推進を行うとともに本格的な国家体制の整備を進めた、飛鳥時代の幕開けを象徴する天皇。 - 小野妹子(おののいもこ)らを遣隋使として隋へ派遣。
- 遣隋使の目的は、中国の進んだ制度や仏教・儒教の文化を学び、対等な外交関係を結ぶこと。「日出処(ひいづるところ)の天子、書を日没処の天子に致す……」という国書が有名。
- 先代・崇峻の異母妹。蘇我馬子の姪(次代は欽明天皇の男系孫)
- 舒明天皇(629〜)
- 留学生や僧侶らを中国へ派遣する遣唐使を開始。630年(第1次)から始まり894年(第20次:中止)まで継続。
- 唐の先進的な法律(律令制)、仏教、文化、技術を大量に吸収し、日本の国家体制づくり(大宝律令の制定(702年)など)に役立てる事が目的。
- 阿倍仲麻呂、吉備真備(第9次)、空海、最澄(第16次)が有名。
- 留学生や僧侶らを中国へ派遣する遣唐使を開始。630年(第1次)から始まり894年(第20次:中止)まで継続。
- 皇極天皇(642〜)
- 先代・舒明の妻。茅渟王(敏達天皇の孫)の娘。(次代は欽明天皇の男系)
- 在位期間に中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足らが中心となり権力が強大となった蘇我入鹿を暗殺・排除が発生(乙巳の変(いっしのへん):645)
- 日本で初めての元号「大化」を定め、孝徳天皇に譲位(645)
- 孝徳天皇(645年 – 654年)
- 中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となり大化の改新の開始される
「天皇による土地と人民を直接支配(律令国家の完成に向けた第一歩)」
:主に以下の4つの政策(改新の詔などで示された方針)に基づく政治改革- 公地公民の原則:豪族の私有(私地私民)から、すべて公有(公地公民:国家(天皇)のもの)へ
- 戸籍・帳簿の作成:国家がすべての人々の戸籍、税の基本となる帳簿を把握
- 税制(租庸調)の導入
- 官僚制・身分制度(冠位・政治組織)の整備:天皇を頂点としたピラミッド型の官僚組織
- 中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となり大化の改新の開始される
- 斉明天皇(655〜)
- 皇極天皇の重祚(退位後の再即位)(次代は舒明の男系)
- 白村江(はくそんこう)の戦い(663年)。660年に唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた百済の再興をねらい、倭国(日本)・百済(くだら)の連合軍と、唐(中国)・新羅(しらぎ)の連合軍の間で起きた古代の国際戦争(朝鮮半島の白村江(現在の韓国・錦江の河口付近)において衝突)。
- 中大兄皇子らの指揮のもと、日本は数万人にのぼる兵士や軍船を朝鮮半島へ送り込むものの日本側の大敗に終わり、古代の日本外交と国家体制に決定的な転換点をもたらす。
- 天智天皇(668〜)
- 中大兄皇子。中臣鎌足らとともに大化の改新をすすめ律令国家体制を構築(天皇を中心とした、法律(律令)に基づく中央集権的な国家体制)
- 弘文天皇(672〜)
- 大友皇子、天智天皇の子。壬申の乱にて敗北。
- 天武天皇(673〜)
- 大海人皇子、天智天皇の弟。壬申の乱にて勝利。「古事記」「日本書紀」の編纂を命じた天皇。
歴史上、「天皇」という称号や「日本」という国号、そして独自の元号(白鳳など)が本格的に用いられ始めたのは、天武天皇の治世からと考えられている。- それまでの「大王(おおきみ)」から脱却し、中国の皇帝に匹敵する絶対的な君主として「天皇」の権威を確立
- 豪族を統制するための「八色の姓(やくさのかばね)」を制定し、身分秩序を再編成。
- 飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)を都とし、本格的な法律や制度の整備(浄御原令の制定に向けた動きなど)を推進し、これがのちの大宝律令へとつながる。。
- 大海人皇子、天智天皇の弟。壬申の乱にて勝利。「古事記」「日本書紀」の編纂を命じた天皇。
- 持統天皇(690〜)
- 先代・天武の妻。天智天皇の娘。(次代は天武の男系)
- 藤原宮(ふじわらきゅう / 藤原京)に遷都(694)
- 日本初の本格的な条坊制(碁盤の目状の都市計画)を持つ都。天武天皇が構想し、持統天皇の時代に完成・遷都。
- 文武天皇(697〜)
- 大宝律令の制定(702)。刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)らが中心となり編纂。日本が法律に基づいた中央集権国家(律令国家)として本格的に動き始める
- 元明天皇(707〜)
- 先代・文武の母。天智天皇の娘。(次代へ男系継承)
- 「古事記」の完成(712)
奈良時代
元明天皇が「平城京」へ遷都:
「律令国家体制」(中央集権化)の強化:豪族の官僚化と「氏族(うじ)」から「家(家門)」への移行
単なる「同じ血筋の集団(氏族)」としてのまとまりから、特定の家系に富や地位が受け継がれる「家(家門)」としての意識が強まる。血統や家柄がそのまま社会的地位を保証する「貴族」としてのアイデンティティが確立。
- 元正天皇(715〜)
- 先代・元明の娘。草壁皇子(天武天皇と持統天皇の皇子)の娘。(次代は文武の男系)
- 「日本書紀」の完成(720)
- 聖武天皇(724〜)
- 孝謙天皇(749〜):先代・聖武の娘。(次代は天武の男系)
- 淳仁天皇(758〜)
- 称徳天皇(764〜):孝謙天皇の重祚。(次代は天武の男系に遡る)
- 光仁天皇(770〜)
- 桓武天皇(781〜)
平安時代
桓武天皇が「平安京」へ遷都:
律令国家体制において、貴族社会(特権階級)が確立、国風文化(貴族文化)が花開いた時代
藤原氏による摂関政治が全盛期を迎えると、政治は完全に京都の朝廷(特定の貴族層)が把握する。
- 平城天皇(806〜)
- 嵯峨天皇(809〜)
- 淳和天皇(823〜)
- 仁明天皇(833〜)
- 文徳天皇(850〜)
- 清和天皇(858〜)
- 陽成天皇(876〜)
- 光孝天皇(884〜)
- 宇多天皇(887〜)
- 第20次遣唐使が菅原道真の建議によって計画停止・廃止
- 醍醐天皇(897〜)
- 朱雀天皇(930〜)
- 村上天皇(946〜)
- 冷泉天皇(967〜)
- 円融天皇(969〜)
- 花山天皇(984〜)
- 一条天皇(986〜)
- 政権権力者 藤原道長(藤原氏)による摂関政治:貴族社会の全盛期
- 藤原道長は自らの娘を3代(一条、三条、後一条)にわたり天皇の后(きさき)を入内させ、天皇の「外戚(母方の実家)」となることで、絶大な権力を握る
- 「藤原氏にあらざれば人にあらず」と言われた時代
- 国風文化の開花(貴族文化): 中国(唐)の文化の影響から脱却し、ひらがなや『源氏物語』に代表されるような日本独自の文化が花開く。
- 三条天皇(1011〜)
- 後一条天皇(1016〜)
- 道長の子 藤原頼通(藤原氏)による摂関政治:貴族社会の完成期と崩壊期
- 藤原頼通も自らの娘を3代(後一条・後朱雀・後冷泉)にわたり天皇の后(きさき)を入内させ、天皇の「外戚(母方の実家)」となることで、絶大な権力を握る
- 後朱雀天皇(1036〜)
- 後冷泉天皇(1045〜)
- 後三条天皇(1068〜)
- 約170年ぶりに「藤原氏を外戚としない天皇」の誕生。藤原氏の荘園を厳しく整理する改革(延久の荘園整理令)などを断行、天皇主導の政治を取り戻す。
- 白河天皇(1073〜)
- 堀河天皇(1087〜)
- 後三条天皇の跡を継いだ白河天皇(白河上皇)は、若くして息子(堀河天皇)に位を譲り、自らは「上皇」となり院庁(いんのちょう)という独自の役所を設置
- 摂関政治から院政への移行
- 上皇の自らの財源・軍事力強化に伴い朝廷内での権力闘争が激化し、武士の政治への台頭するきっかけとなる。
- 鳥羽天皇(1107〜)
- 崇徳天皇(1123〜)
- 近衛天皇(1142〜)
- 後白河天皇(1155〜)
- 保元・平治の乱(1156年・1159年)平定による平家(平氏一門)の台頭
- 二条天皇(1158〜)
- 六条天皇(1165〜)
- 高倉天皇(1168〜)
- 安徳天皇(1180〜)
- 木曽義仲の軍勢が京都に迫ってきたため(1183)、平家一門は幼い安徳天皇を擁し、さらに皇位の証である「三種の神器」をすべて持って都落ち
- 源氏の平家討伐(壇ノ浦の戦い(1185)での平家の滅亡。)
- その際に三種の神器のうちの一つ、草薙剣が水底に沈み失われたとされる
(現在、熱田神宮に祀られている草薙剣は、のちに宮中から再び分祀・再模造されたもの)
- その際に三種の神器のうちの一つ、草薙剣が水底に沈み失われたとされる
- 後鳥羽天皇(1183〜)
- 朝廷(後白河法皇)は権力の正当性を保つため、神器がないままの異例の形で当時3歳の後鳥羽天皇を即位させる(1183)(日本史上初めて2人の天皇が同時に存在する状態が約2年間続く)。
- 平家滅亡後、源氏の政権掌握。朝廷は後鳥羽天皇の名のもとに源頼朝を征夷大将軍に任命。
- 「鎌倉幕府」の樹立(武家政権の成立)
鎌倉時代
「武家政権」への転換。
源頼朝を征夷大将軍に任命される事により「鎌倉幕府」が開かれる
- 土御門天皇(1198〜)
- 順徳天皇(1210〜)
- 仲恭天皇(1221〜)
- 後堀河天皇(1221〜)
- 四条天皇(1232〜)
- 後嵯峨天皇(1242〜)
- 後深草天皇(1246〜)
- 亀山天皇(1259〜)
- 後宇多天皇(1274〜)
- 伏見天皇(1287〜)
- 後伏見天皇(1298〜)
- 後二条天皇(1301〜)
- 花園天皇(1308〜)
- 後醍醐天皇(1318〜)
:鎌倉幕府を倒幕した天皇。その後の南朝の初代天皇
南北朝時代
後醍醐天皇の「建武の新政」の失政から(足利尊氏が反旗を翻し)北朝南朝に分かれる
| 北朝(持明院統) | 南朝(大覚寺統) |
| (京都) 皇統を維持していたが、三種の神器を持たない | (吉野:奈良) 皇統を維持し、三種の神器を保持しているため、「正統な天皇」としての形式的条件を満たす |
|---|---|
| 97.光厳天皇(1331〜):北朝の初代天皇 足利尊氏により天皇として擁立される。その後足利尊氏は室町幕府開設 | 97.後村上天皇(1339〜) |
| 98.光明天皇(1336〜) | |
| (飛ばし) 崇光天皇(1348〜) | |
| (飛ばし) 後光厳天皇(1352〜) | 98.長慶天皇(1368〜) |
| (飛ばし) 後円融天皇(1371〜) | 99.後亀山天皇(1383〜) |
- 現在の皇室の血筋は北朝系の天皇から継承されているため、明治政府が採用したのは、
「心情的・史的には南朝を正統とするが、北朝の系譜も正当なものとして認める」とする説
(南朝が97-99代の3代-3人の天皇に対して、北朝が97-99代天皇に5人の天皇が存在する背景)- 「皇統の連続性を維持するためには北朝の系譜が必要不可欠だが、思想的な整合性を求めると南朝を正統にしなければならない」という二律背反に対する明治政府の苦肉の策。
- 南北朝合一以降、皇位(天皇の座)は北朝(持明院統)の系統からのみ継承されるようになり「天皇の座を継ぐ系統としての南朝(大覚寺統)」は、実質的に途絶えたとされる。
室町時代
南北朝時代終了(後亀山天皇が後小松天皇へ譲位)
- 後小松天皇(1382〜)
- 称光天皇(1412〜)
- 後花園天皇(1428年〜)
- 後土御門天皇(1464〜)
- 後柏原天皇(1500〜)
- 後奈良天皇(1526〜)
安土桃山時代
- 正親町天皇(1557〜)
- 後陽成天皇(1586〜)
江戸時代
- 後水尾天皇(1611〜)
- 明正天皇(1629〜)
- 先代・後水尾の娘。(次代は父・後水尾の男系)
- 後光明天皇(1643〜)
- 後西天皇(1654〜)
- 霊元天皇(1663〜)
- 東山天皇(1687〜)
- 中御門天皇(1709〜)
- 桜町天皇(1735〜)
- 桃園天皇(1747〜)
- 後桜町天皇(1762〜)
- 先代・後桃園の叔母。桜町天皇の娘。(次代は父・桃園の男系)
- 後桃園天皇(1770〜)
- 光格天皇(1779〜)
- 仁孝天皇(1817〜)
- 孝明天皇(1846〜)
- 明治天皇(1867〜)
明治維新 ~ 第二次世界大戦(大日本帝国憲法下)
明治天皇即位直後に大政奉還。大日本帝国憲法下の「天皇主権」国家への体制転換(明治維新)
- 明治天皇(1867〜)
- 明治維新による近代国家への転換(王政復古の大号令、江戸幕府の終焉と明治政府の樹立)
- 大日本帝国憲法の発布(1889)
- 旧皇室典範(大日本帝国憲法と同日に発布)
- 日清戦争(1894)・日露戦争(1904)の勃発
- 大正天皇(1912〜)
- 第一次世界大戦の勃発(1914:日本は連合国側として参戦)
- 関東大震災(1923)
- 普通選挙法の公布(満25歳以上男子に選挙権付与)と治安維持法の制定(1925)
- 昭和天皇(1926〜)
- 満州事変の勃発(1931:国際連盟からの脱退へ)
- 日中戦争の本格化(1937)
- 太平洋戦争の勃発(1941:第二次世界大戦敗戦(対米英開戦))
第二次世界大戦以降(日本国憲法下)
第二次世界大戦敗戦(1945)後、日本国憲法の施行(1947)に伴い「天皇主権」から日本国憲法下の「国民主権」へ(戦後改革)
- 昭和天皇(1926〜)
- 第二次世界大戦敗戦(1945:ポツダム宣言受諾)
- 日本国憲法の施行(1947:国民主権、象徴天皇制の成立)
- 現行の皇室典範(日本国憲法と同日に発布)
- サンフランシスコ平和条約の調印(1951:日本の主権回復)
- 平成天皇(1989〜)
- 今上天皇 徳仁:令和(2019〜)
日本の初期の社会構造:氏姓制度について:大王家(のちの天皇家)と豪族
日本の初期の社会構造として最初に形作られたように見える「氏姓制度」(古墳時代のヤマト政権下)についてと当時の豪族についての覚書
氏姓制度
「氏(うじ)」:血縁・地縁のグループ
- 政治の基本単位は「氏」(血縁関係や強い地縁で結ばれたグループ)。
蘇我氏、物部氏、大伴氏などがこれにあたる - 各氏のトップである「氏上(うじのかみ)」が、一族や配下の集団を率いて政治に参加。
「姓(かばね)」:役職・身分の与付け
- 大王(おおきみ)は、それぞれの「氏」に対して、その地位や役割に応じた「姓」(臣・連・君・直など)を与えて政権内の秩序を整えた。
部民(べみん)制:生産基盤
- 大王や有力な氏族は、「部(べ)」と呼ばれる職能集団や労働力(部民)を所有・支配して、農業や手工業などの経済基盤を支えさせていた。
大王家と豪族
大王家(王権:のちの天皇家):
- 5世紀(中期〜後期)に台頭
- ヤマト政権が形成され始めた頃(古墳時代の初期)、各地に割拠していた強力な豪族(首長層)たちのなかの「代表者」や「まとめ役(第一人者)」という立場であった大王家が、雄略天皇(ワカタケル大王)の時代、ヤマト政権が奈良盆地(飛鳥地方など)に戻ったころから、全国的な連合政権の盟主として権力を集中化していったとの説が有力。
5世紀末の継体天皇の即位(507年頃)などを経て、より安定した世襲的・その後の中央集権的な王権確立へと脱皮していく。 - 大王家は、氏姓制度において各豪族に対して名付け、官位を与える立場
(「あなたは今日から〇〇氏として、△△の姓を与える」)
大王家はシステムを作る側であったため、称号を「与える側」。大王家自身に氏姓はない
(これは今上天皇も同じ)
主要豪族
物部氏(もののべし):
- 6世紀前半頃(それ以前からの古い軍事官僚的基盤を強化)に台頭。ヤマト朝廷の軍事や警察権、刑罰といった実務を担う「伴造(とものみやつこ)」のなかで中核を占め、大和政権の武力面を支える強力な豪族として重きをなす有力な氏族
大伴氏(おおともし)・中臣氏(なかとみし):
- 物部氏と同様に、軍事や神事(祭祀)などの特定の職務(伴造)を世襲して朝廷を支えた有力な氏族。
葛城氏(かづらぎし):
- 古墳時代中期に非常に強い勢力を誇った豪族。大王家に娘を嫁がせることで政権内で大きな影響力を持ったが、5世紀末に衰退しました。
蘇我氏(そがし):
- 葛城氏の衰退後、6世紀中頃(蘇我稲目(そがのいなめ)の時代)に台頭。財務や外交、渡来人とのパイプ役などを通じて急速に頭角を現し、従来の古い官職とは異なる「大臣(おおおみ)」という最高幹部のポストに就く。娘を次々と天皇の妃に送る婚姻政策を成功させたことで、大王家に深く食い込む
地方の有力豪族
中央の政治だけでなく、各地で独自の強大な基盤を持ちながらヤマト政権の連合体制に加わっていた豪族
吉備氏(きびし)
現在の岡山県・広島県東部(吉備地方)が基盤
筑紫氏(つくしし)
九州北部が基盤。6世紀前半に磐井の乱(いわいのらん)を起こし、ヤマト政権の支配に抵抗したことで知られる。
毛野氏(けのし・上毛野氏/下毛野氏)
北関東(群馬県・栃木県周辺)が基盤。馬の飼育や鉄器生産などの先進技術を背景として大きな力を持った豪族。
「万世一系」と歴史的事実のギャップ
ちなみに、天皇の系譜(皇統)を示す「万世一系」は史実に基づくというより物語としてとらえる方が腑に落ちる。
これは、大枠
- 神話と歴史学の乖離(欠史八代・邪馬台国・継体天皇)
- 「日本書紀」の中で、初代・神武天皇が即位したとされるのが「辛酉年(しんゆうねん)の春正月庚辰1日(訳2600年以上前)。これは紀元前660年にあたり歴史上弥生時代(邪馬台国より前)、この当時日本は独立した地域勢力が多数存在する「クニ連合(分立社会)」の状態のはずであり、天皇による統治国家であったとは考えにくい。
- また、欠史八代も含まれ、その時代背景のなささから史実というより物語(神話)としてとらえる方が自然。
- またこの時代の(継体天皇前の)血統のつながりについても記録は極めて希薄(裏付けはない)
- 政治的要請による「万世一系」の神話化(古事記・日本書紀、南北朝、大日本帝国憲法)
- 特に天武天皇の時代(古事記・日本書紀)、明治維新時(大日本帝国憲法)統治権の正当性を持たすため、(神話を含めることにより)天皇家は神につながる血統であるとし、統治の正統性を強化してきた歴史をもつ
であることからの推論。
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